それがたとえ夢だとしても

これ以上好きにならないなんて 言わないよ絶対

言葉の力は偉大で、映像の力は絶大で。

 

遅ればせながら先日、『掟上今日子の備忘録』原作を読み終えた。ドラマ化されるずっと前から知っていて、何なら設定から装丁まで完璧に覚えていた小説。というのも、本の雑誌ダ・ヴィンチ』で新刊として紹介されているのを見ていたからだった。何であのときすぐに買って読まなかったのだろうと今では後悔している。

 

これを綴り始めた理由は、ただ全体の感想を書きたいと思ったからではなく心揺さぶられ忘れられない部分があったから。ただの戯言と思って通り過ぎてくれれば幸いです。

 

隠館厄介が小説家である須永昼兵衛の別荘に行き、書棚に入った彼の著作を手に取って読み進めた時の心の声が次の通りである。

忘れているものだ。そして、覚えているものだ。なるほど、新しい知識を知り、 新しい体験をするというのは快感だが、同様に、忘れている知識や体験を思い出すという行為も快感である__気持ちいい。

西尾維新. “お暇ですか、今日子さん”. 掟上今日子の備忘録. 講談社, 2014, p.161.)

衝撃的だった。確かにもし自分が同じ状況になってもきっとそう思うだろう、こんなに的確に言葉で表現することはできないにしても。同時に思い出されたのはやはり「彼ら」のこと。特に言うなら「私が山田涼介を好きになったあのドラマ」のことだ。

 

去年の7月。軽い気持ちで覗いた動画サイトで全く同じことを体験した。正直自分を疑うほど話の流れを覚えていたし、結末も忘れてはいなかった。でもかなり前の作品だ、さすがに演者の表情まで覚えているわけがない。…だから。

 

知っているのに知らない表情。見たはずなのに経験したことのない、覚えていない感情。受け取るすべてが、溢れ出す様々な感情が快感で背筋が伸びる気持ちだった。初見とも違う、よく知る大好きな作品とも違う驚きと喜びと懐かしさを感じた瞬間。この感情は恐ろしい。字の如く坂を転がり落ちるように彼に、彼らに落ちていったことを考えると相当大きくて抗えないような重みをもった思いだったんだろうなと思う。

 

話が多少脱線しましたがひとつ言いたいのは、このような様々な経緯や感情を一瞬で呼び起こしたこの表現が、言葉が偉大だということ。表現次第で受け取る印象や情報はまるっきり変わってしまうしその伝え方は数え切れないほどあるという危ない橋を渡らねばならない点はあるが、だからこそこちらが抱く感情も無限だ。受け取るのが誰か、どんな状況に置かれた人かによっても変わる。だから、本当に言葉というものは偉大だと思う。

 

一方映像はどうだろう。映像はこちらに考える隙を与えないことのほうが多いと個人的には思う。余計なものはそぎ落としたり設定を変え、不足しているものは付け加える。皆が同じ先を見て物語と寄り添っていけるように作られている。だからドラマのあのシーンを見てもこんなことは思い出さなかったし、あぁそうなんだ程度で終わってしまった。

 

映像が悪いとかそういうことを言いたいのではなく、そういう隙を与えないからこそ「映像は絶大」なのだと実感したということを記しておきたいと思う。人にもよるとは思うが映像と小説を両方楽しんだ人との場合、題名を聞いた時に思い出すのはおそらく「映像」の画だと思う。音と写真が組み合わさって表現された世界の力は強い。そして小説では表現できなかった音…特に音楽が加わることでその世界が豊かになる。追加設定が功を成せばまた広がる。だから映像は面白い。

 

上手くまとめることはできないけれど、とにかくこの一場面だけでも感動をよみがえらせる威力をもつほど素敵な言葉が並べられていたし純粋に読書が楽しかった。ドラマの微笑ましい雰囲気や原作では登場しないサンドグラスのメンバーの法郎さんまくるちゃん塗くんを思い出して懐かしくなった。復活してほしい、そして原作は続きを早く読みたい限りです。あぁ、とにかく楽しくて愛おしかった。結局それだけなんです。